HENTAI & English learning room
 
エロゲと英語のブログ
 



2007年11月を表示

俺たちに天使はいない

ぼちぼち大きな用事も済み、クリスマスの準備も加速を始める季節となった。まずはその布石として、いくらか例の作品についてのレビューと紹介を記しておく。

天使など存在しない

この作品の意味するところは、言うまでもなく作品名そのものに表れているが、これを肯定の意味で捉えるか否定の意味で捉えるかによって、この作品の印象は全くの正反対となる。つまりEDまで進んだ段階で、ある程度これの解釈のための「余白」を残しており、結果的にそこまでのシナリオの重さが、ED終了時におけるこの作品の評価の分かれる大きな原因であることは間違いない。
ここで確かなこととして言えるのは、ただ天使はいなかったということだけであり、これは同時に、本編中で描かれてきた時系軸もしくはそれ以前にのみ言えることでもあって、それはそこまでの結果に過ぎない。もしかしたらその後に天使の存在をその目で確認できるかもしれないし、そうでなければその後もこの証拠を求め続けることになる。プレイヤーがどちらの意味で解釈するにしろ、その部分にプレイヤーの思考が入り込む余地を与えたことは、プレイ後の話題の提供という意味でもある種の正解だったのかもしれない。
おそらく一般的な作品と同じように、主人公=プレイヤーという視点を貫こうとするならば、同じような噂の立つ作品とは別の意味で、何故これをエロゲでやらなければならないのかという疑問が浮かんでくる。主人公はひたすらにマイナス的な思考を繰り返し、自暴自棄な行動こそが解決の手段と思っているかのごとく行動し、その結末がSEXという、プレイヤーの思考の逆を行く様は、通常のプレイヤーであれば落ち込むかプレイを断念するかのどちらかである。普通はどんな鬱ゲーであっても、現状を打破しようという選択肢と共に、それに従えない主人公という一連の方程式が完成しているものだが、この作品では選択肢を選ぶこと自体がBADENDへの近道という、全く別のベクトルでの「鬱ゲー」を提供しているわけだ。

原画師のファンでなければお奨めできない作品

シナリオをある程度楽しもうという輩は、初めからこの作品の対象には含まれていない。特にleaf儲はこの作品をプレイしたとき、一種の絶望を感じたのではないだろうか。というのも、この作品は2003年発売当時のleafが、当時のファンに向けて制作した一種のメッセージであると考えることができるからだ。表面上はWhite Albumに近いイメージを持たれるかもしれないが、果たしてED時にどれだけの人がそれに気付くことができるのだろうか。その結果は、実際にクリスマスが来るまで待つこととしよう。



11月29日(木)21:07 | トラックバック(0) | コメント(0) | 趣味 | 管理

山場は続く

今週も火曜から木曜までテストが入っています。

更新が滞ります。ご了承ください。



11月26日(月)20:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | 趣味 | 管理

其の雪こそ我の糧也

クリスマスまでいよいよ残り1ヶ月

去年はKanon、一昨年は智代アフターと、良い意味でも悪い意味でも一部である種の伝説が生まれてきたと自負するクリスマス一挙朗読であるが、今年はこれまでの感動路線とは異なり、自虐的なを提供する作品の朗読となる。反省会まですっきりと終われたこれまでの作品とは一線を画するわけだが、時期的なポテンシャルはこれまで異常に計り知れないものがあると見ている。
シナリオの長さ自体はKanonのそれと同等程度と見ているが、最初から頑張って全て聴こうとする場合は、最悪やるせない年越しを向えることを覚悟いただきたい。ちなみにエロは多めである。

あなたは最低の男になれるか?

女性の好意を踏みにじり、最終的には放り出す男が主人公であるこの作品については、逆にその状態を味わったことすら無い男性陣がプレイヤーの大半であり、実際のところ主人公の気持ちを理解できる男はほとんどいないというのがこの作品の面白いところである。それでいて主人公の気持ちを理解しようとすることが、やはり現実(三次元)との境界線を曖昧にするためにはある程度の影響力を持っている。いわゆる萌え系の作品に対し、この作品では逆の意味でこんなリアルを送ってみたいという欲望が生まれやすいからこそ、その筋の人たちには高い評価を得ている。
現実では、女性はこんなことを平気で実行に移すから注意されたい。それをただ表面からオブラートを取り除いて描こうとしている作品である。心情の揺れ動きを言葉で表現し、その意味を理論的に解釈していこうという描写は、基本的にこの作品が完全に男性向けであることを表している。だがしかし、ヒロイン側が自分の感情だけで意見を投げ掛けるあたりはなかなかリアルの女性を意識させるに相応しい描写法である。この点は流石Leafといったところか。「それでも私は一緒にいたいの」なんて男からすると理解に苦しむ。

ある意味今までで最もクリスマス向け

クリスマスのVIPはまさに自虐とネタの宝庫と化す。クリスマスに彼女の一人も作らずに家に篭もる息子を見て、親は何を思うのだろう。だが、ここでもう一つ明るい話題を提供するとすれば、同年代の男性の人数は女性よりも数十万人多いということぐらいか。つまりどんなに頑張っても、男性の方が余るのだ。それならば、残りの不足分を二次元で補っても罰は当たらないはずだ。


あと1ヶ月である。



11月24日(土)18:29 | トラックバック(0) | コメント(2) | 趣味 | 管理


ONE~輝く季節へ~はやはり名作

癒される。サントラ、もといBGMがエロゲ界のこれまでの作品の中でも特に抜きん出ている。
これを聴くと、これまで勉強してきた全てを忘れ、無に帰すことができる。特にが強烈だ。

さあ、もう一頑張りといこう。
明日でとりあえず一段落だ。



11月22日(木)00:17 | トラックバック(0) | コメント(0) | 趣味 | 管理

最後に1回更新しとくか

やはり俺の英語のできなさは異常

私にとって、外国語極めて英語は単位修得更に卒業のための最大課題であることは、既に皆の知るとおりである。
笑われるのも当然と言える珍解答の連続に、クラスの爆笑も必至の私の解答の一例をご紹介しよう。


American love of moving on is shown in the matter of housing. It is rate for the same family to continue to occupy a house for generations.


英語が得意な方にとっては何ら難しくもない例文であるが、私が翻訳サイトに頼らずに解答したところ、以下のような解答となった。しかしその後翻訳サイトを利用したところで、文脈が安定しない文章が気に入らず、丸写しになることはなかったと考えられる。


引越しが好きなアメリカ人は、その住宅事情を観察したいた。それは、同じ家族が何代にも渡って住み続ける、ごく稀な住宅である。


一部の英語識者は笑ってくれても構わない。私の英語のレベルは所詮この程度なのだ。
この訳でなかなか深い文章に仕上がっていると思わないだろうか? アメリカ人は色々と思慮深い人種なのだ。きっと彼はそこから何かを得ることができたのではないだろうか。
正しい解答は以下のようになるらしい。


アメリカ人の移動好きは住宅事情に表れている。同じ家族が同一の家に数代に渡って住み続けることは稀である。


そう言われれば確かにそうだから何も言い返すことはできない。



11月19日(月)01:36 | トラックバック(0) | コメント(1) | 趣味 | 管理

一週間ほど更新を停止します

所要により、今日から一週間ほど更新停止となります。

泊り込みも見られる季節となりました。
私も今週一週間(木曜まで)は勝負掛けの予定です。



11月18日(日)20:13 | トラックバック(0) | コメント(1) | 趣味 | 管理

何でも実況V大学について

もうそろそろ見限る頃か

始祖となるスレが立った当初から見守り、自身も参加してきたスレだったが、dat落ちまでの猶予もある程度長い板であのような目に遭うということは、もうそろそろ潮時なのかもしれない。
私も慈善事業でわざわざあんなスライドまで作って勉強の話をしているわけではない。これは流行ると思ったから早いうちに飛びついたのだ。こちらとしては人気が出てなんぼの世界である。それでいてどんなに苦労しても見返りのない行いをしているよりならば、どこかのスレでDQやらFFやらをプレイしたほうがよっぽど有利だろう。

それでも辞められない理由がある

結局、配信者側も限られた人数しかいないため、現在最も頻繁に配信している私がいなくなれば、スレが常時保守されている意味はほとんど消失してしまう。特に平日における存在価値は皆無なので、週末にのみ立つスレとしてならば機能するかもしれない。告知も必要なので、金曜の午後にはスレが立つようにすれば十分だろう。
ただ配信者としての理由の他に、より学術的な知識を身につけて欲しいという個人的な感情もある。私は公衆の面前で無知を晒す人間が好きではない。科学技術で世界のトップをゆく日本に生まれながら、その技術に関して少しも知らない人が多いのは非常に驚く。優れたこの国に生まれたというプライドを少しでも持って欲しいのだ。
配信者が増えてきたら、私の役目も終わりだろう。

全体的な需要がわからない

さて、それではどういった内容の配信を行えば人気が出るかという話になるが、実のところ、これは大して難しい問題ではない。

・実況配信のやり方(WMEの設定からキャプチャーまで)
・ネトラジの導入法
・P2Pソフトの導入法
・エミュレータの動かし方
・面白い配信のやり方
・回線速度向上テクニック
・性に関する内容
・初音ミク

予想するに、このあたりだろう。ここに更に配信時の条件が加わり、全てがプラスに働けば人気が出る。特に初音ミクは盛り上がる自信がある。
私はそういうことがしたいのではなくて、いかに興味の持ちにくい内容を面白く見せて人気を集めるかを追求したい。これこそが視聴者の娯楽を与える我々配信者側のであろう。そうなったときに、別の意味での「人気の出る可能性」を探らなくてはいけない。その可能性を秘めた配信内容、ここでは授業内容ということになるが、これがなかなか分からないのである。

配信者側で何らかの企画を

時間の関係を気にしていると、いつまでたっても始まらないにも関わらず、必ず話題に上るのがこれである。もういいかげんこの話も行き詰まっているので、冬休みにでもこちらから企画を持ち込んで、無理なら一人でやるぐらいの気持ちで臨みたい。
結局誰かがやらないと始まらないのだから



11月15日(木)21:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | 趣味 | 管理

相対性理論

先日、実況V大学での講義中に、相対性理論について教えてくれと言われたが、自分でもはっきりわかっていなかったので、天下のwikipedia様の助けも借りながら、少しばかり調べてきた。

タイムスリップはできるか?

もちろんその後の研究によって、これについての様々な見解が導き出され、厳密な意味では今のところまだ不明であるが、アインシュタインの考えは、この問にどのように答えたのだろうか。
まず、相対性理論という難しい話をする前に、ごくごく一般的なレベルでの物理の話から始めよう。もし我々が動いている物体(車や電車など)から外の景色を眺めたとすると、外の景色は動いている物体の速度で遠ざかっていく。静止していない物体については、その物体の進む速度を足し合わせた値が、動いている物体中にいる我々から見た見かけの速度となる(ベクトル量であることに注意)。これを移動している物体どうしの相対的な速度という。

もっと簡単に言えば、新幹線の車内を歩いている人間は、本人はいつもの速度で歩いているように思っても、新幹線の外から見ている人間からすれば、新幹線より早く歩いているように見える。ここで、新幹線から見た、車内を歩いている人間の見かけ上の速度が相対的な速度である。

ここまではごく当たり前の話であるが、なんとこの法則に従わないものがこの世に存在する。それがである。光だけはどんな速度上で観測したとしても、同じ速度で進んでいるというのである。これを光速度不変の原理という。このあたりの詳しい説明は、電磁気学におけるマクスウェル方程式から導かれるが、ここでは簡単のため割愛する。

当時(100年ほど昔)、これは物理界で大きな問題となった。これをいかに解釈するかという部分で様々な意見が飛び交うことになるが、ここで無名だったアインシュタインが画期的な意見を発表する。これが今日、特殊相対性理論といわれるものである。


非常に速く進む物体のそばでは、時間の進みが遅くなっていると考えれば、同じ時間内で同じ距離を進んだことになる


言っている意味がお分かりになるだろうか?
あまりに突飛なこの意見に対し、当時の物理界は騒然となったことは言うまでもない。今となっては様々なアニメなどで時間の進みが遅くなる、いわゆるスローモーションという撮影技法によって概念的に理解も容易いが、まだまだやっと映画が娯楽として浸透してきた時代に、そんなことを思いつくことが既に天才である。

さてそうなると、物理学の根底であった部分に対して矛盾が生じるようになる。例えば運動量といったところである。速度に対して時間が一定間隔ではないため、F=maという有名な式から質量を求めることはできない。相対論的に言えば、物体の質量は速度によって変化する。ここで、あらゆる物体は速度の上昇によって重くなる


ここまで説明すれば十分だろう。タイムスリップは可能であるかどうか、後は各個人で推論していただきたい。



11月13日(火)03:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | 趣味 | 管理

つくとり  1

こんな作品で売れるとでも思っていたのか

業界全体のニーズを通して見ると、普段から我々がそれっぽいと思っているものの需要が最も高い。つまり、登場する女性キャラはリアルのそれに比べて非常に純粋であり、変な服装をし、変な口癖や習慣を持っているものである。この作品における登場キャラ(人間)というものの解釈については、スタートと帰着点はやはり同じところにあると言えるが、途中のプロセスがあまりにも奇抜で、簡単に言えば「癖の強い」作品である。このような作品はプレイヤーを選ぶ。よってこの作品が巷で高く評価されるための期待値は発売当初から非常に低かった。ものからこのメーカーの作品を進んで買うということの意味を知るプレイヤーからすれば、今回はそうきたかという答えの者が最も多かったと考えられる。

インスパイアしたのか、それとも挑戦したのか

舞台設定に田舎を用い、閉鎖的な空間で起こる殺人事件を村の伝承になぞらえて描いてゆく手法は、果てしなく青い、この空の下で・・・という作品が完成させている(少なくとも、この業界において)。この作品は最早古典として語られているに等しく、現在におけるこの流れの源流となっている作品は、言うまでもなくひぐらしである。このような作品の特徴として、シナリオ中のイベントや全体の流れは、構成上どうしても似てしまう部分があるわけだが、例えば主人公の設定(カメラマン)のような、似せる必要性の感じられない部分にまで同一性を持たせたことについては、完全な挑戦と捉えても差し支えないのだが、件の作品との大きな相違点として、季節をまったく別のところに設定したというのは、これは実際にプレイするとわかるのだが、季節感を問わないシナリオを描く中で、同一視されることを避けたと考えることができる。逆に、あえて異なる部分をアピールして、それ以外の似ている部分をわざと強調し、プレイヤー側に意識させていると考えることもできる。そのためこの作品は、例の作品に対する挑戦状であると判断できる。

主人公の傍若無人っぷりは健在

外者である主人公が疎外され、疑心暗鬼になる流れはやはり健在であるが、その時の主人公が考えている「信用のライン」が曖昧な部分にある感がある。誰を信頼し、どの部分を疑うのかについては、あくまで外者であった主人公の場合には、同じように外者である、一部の数少ないキャラに信頼を寄せるという流れが最も自然である。ひぐらしの場合は完全に主人公一人が孤立しており分かりやすかったのだが、他にも外者が存在しているという恵まれた状態にあった主人公が何故一部の村人(ヒロイン)を信頼できるというのか。
残念なことに、この作品はあくまでエロゲであるから、ヒロインが村人である以上、これはしょうがない部分でもある。この部分をいかにクリアできるかが、良作との分かれ目でもある。

何故主人公が真っ先に殺されなかったか

シナリオ中では以外にもこの部分は無視されているが、実はこの部分がこの作品の最も大きな謎である。村人の家に宿泊しているという状態で、よく主人公も夜に眠れるものだ。家の主が犯人かもしれないという疑いも持たずに。
何が言いたいかというと、つまり主犯側にとって、主人公を生かしておく意味があった、もしくは生かしておかなければならない理由があったということである。この必要性を序盤からひた隠しにするシナリオがどれだけ不自然なものに映るかは、この作品をプレイした者のみが知ることだろう。また、この部分に大きな伏線が隠されているということもできる。

その結果は次回としよう。



11月12日(月)02:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | 趣味 | 管理

この一週間は早かった

エロゲ全然できなかった件について

言い訳はしない。

ドイツの映画の「白さ」は異常

先日ある授業でドイツの映画を鑑賞する機会があった。皆様の予想するように、ドイツ語の講義内での話なのだが、これまでにも何本かドイツの映画を鑑賞しているので、これらを含めてドイツ映画の大まかな総評をしてみよう。
その前に、欧州における映画の役割について簡単に解説しておこう。娯楽としての映画を考えた時の嗜好性もアメリカのそれとは異なり、脚本面でも、より哲学的な表現を有する構成を好む。特に第一次世界大戦以降は、娯楽としての映像作品という考え方よりも、むしろ近代芸術としての価値を高める動きが活発化し、ソドムの市に代表されるような、非常に先鋭的な内容の作品も多く発表されている。
さて、ドイツ映画についてだが、やはりこれもドイツ的というのか、「社会」に対する「こうあるべき」という形をとくに映像内でも規律化している向きがあり、監督によっても、これをいかに表現するかの苦労が見てとれる。特に多いのが、家族で食事をしているカットや、街並みを奥まで見渡せる背景カットである。
このような国別で見た映画の作風は、それぞれの国の国民性を覗えるため、非常に面白い。更にドイツ映画は白いものを好んでフィルムに収める傾向がある。白い服、白いカーテン、白い壁、白い置物など、注意深く見ると、ほとんどのカットで白(または薄い色)の割合が多いことに気付く。アクションやホラーを除けば、更にその傾向は強い。
まだまだドイツ映画の数をこなしていないのではっきりとは言えないが、欧州の映画における子役の用途も、特にフランス映画と比べれば、はっきりとその違いが見てとれる。例えばフランスの映画は、抽象的に言えば哲学的で、子役の登場に際しては、その表情をよく捉えようとし、彼らが何を考えているか自体を、脚本の帰着点に結びつける。つまり、これらの映画では、子供が何を考えているかが分からないのであるが、ドイツ映画では逆に、子役にとらせる行動は非常に単純で理解しやすいものである。これは子役の視点を通して、その外にある世界を単純化し、わかり易いようにするための工夫である。そのフィルターを通して、社会の問題点や大人の世界の複雑さに疑問を問い掛けるのがドイツ映画の「やり方」である。

ならば邦画はどうか

哲学的な芸術性を映画の正しい方向性と捉えるならば、邦画は総じて低級な「映像遊び」でしかない。これは歴史的に西洋では古くから哲学が学問として発達してきたが、日本ではそうではなかったことに起因する。だから我々は「○○は××であるべきだ」というこだわりが多くあるわけでもないし、あったとしても、それが哲学的で学問的な方向に存在していることは少ない。
だからといって、邦画が決して劣っているわけではない。映画という芸術の持つ方向性は多岐に渡り、別の面で評価の高い映画も多く存在する。個人的に言うならば、邦画の素晴らしさは文化の表現視覚効果の工夫(特撮)にこそあると思う。世界で評価の高い邦画をいくつか考えてみれば、その理由も納得できるだろう。
例えば私の愛してやまない黒沢明氏の七人の侍である。放映当時の日本人はどうかわからないが、今の日本人が見ると、間違いなく衝撃を受けるだろう。やはり諸外国でもそれは同じことで、日本独特の文化や宗教観、生活様式というものは、非常に新鮮に映る。つまり邦画は、新しいものや捉え方をあっさりと出してのけるのである。

日本人はもっと自国の文化を誇りに思ってもいいだろう。



11月10日(土)01:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | 趣味 | 管理


(1/2ページ)
>1< 2 最後